■初代~二代目

 昭和49年廣田嘉秀が代を継ぐ。この年、和装業界の売上規模は約2兆円だったといわれている。しかしその年を境に和装業界の売上と規模は年々縮小していく。着物に代わる洋服の時代になったのだ。さらに平成~令和と着物業界は下降の一途をたどり、一部の和装業者の違法な販売方法などによる社会問題も起こった。

 二代目、嘉秀は1936(昭和11)年生まれで廣田一栄の三男である。兄2人姉1人の末っ子だが、子どもの頃から母は嘉秀だけを商売の現場に連れて行った。呉服屋では反物の模様、仕立て上がりの色柄などを実際に見せていた。それは彼のセンスや商才を見出していたからだろうと想像できる。

「母はとにかくおしゃれな人で、私自身も小さい頃からしゃれたものを着せられた記憶があります。夏に黒い服を着せられて、黒は熱を吸収するから暑い、と言ったら『暑い時に黒を着て涼しげに見せる、これが本物のおしゃれや』と言われました。今でもその言葉は忘れられません」と嘉秀は言う。

 昭和35年関西学院大学を卒業後菱屋に入社。東京六本木、アマンドの向かいに東京営業所を作ったほど新進気鋭の経営者であり職人だった父の片腕となって、職人らと共に鼻緒を作り続けた。江戸小紋、江戸更紗、紅型、大島紬、錦絵や緞帳の絵、正倉院柄、シルクロードゆかりのもの、さらにはフィレンツェのフレスコ画まで、常に伝統的な文様を鼻緒に使えないかと考え商品化にいそしんだ。鼻緒が数センチの範囲で美しく映えるよう美的センスも磨いた。柄が大きすぎても小さすぎても見た目がよくないし、その絵柄が持つ意味も考えてアレンジした。

 当時、無地革の鼻緒は流通していたが、模様入りの革素材の鼻緒はなかった。嘉秀は友禅の手法を取り入れてペンテックス(捺染)による技法で、模様入り革素材制作に着手した。革は油分があればあるほど強いが、色を入れるのが難しく、そのための加工が必要になる。しかし、油分を抜くと革が弱くなるため、その兼ね合いが難しい。当時の職人たちは面白がると同時に、自分の腕だめしとばかりに新しい技術に取り組んでくれた。そして本革に和柄を模した菱屋オリジナル「更紗革シリーズ」に着手。後の金彩加工やふくらまし加工など新しい技法を駆使した鼻緒は200種類にも及んだ。

 知人社長に声をかけられて海外視察にも出かけた。年に2~3回ヨーロッパに行って情報収集や仕入れを行っていた人で、「和の履物屋だとしても新しいものを見ないといけない、見聞を広げなさい」とアドバイスをもらって同行したのだ。ファッションの都、フィレンツェでは職人が誇りをもって仕事をしていることに衝撃を受けた。ファッションに関するあらゆるものがここで作られてミラノに送られ、パリへ行き、やがて世界に広がっていくと聞き、宝石、装飾品、うつわ・・・ 視察内容は幅広く、その全てが鼻緒柄のヒントになった。

 そんなフィレンツェの知人社長行きつけの洋服屋でしまうま柄と出会った。それは数十にも及ぶ服地用の見本帳の中にあった。これは面白い!とひらめいて、スカーフとその柄で妻用にワンピースの仕立てをオーダーして帰国した。数か月後、ワンピースが手元に届いたが、持ち帰ったスカーフと仕立て上がったワンピースのしまうまの大きさや柄行が発注した時のイメージとは違うな…というのが、手にした時の率直な感想だった。

 その後、素材開発の職人達やと友禅絵師の監修のもと散らし柄のしまうま文様を試作。続けて、鼻緒やバッグ、クッションカバーなどを製作し業者向け展示会で発表した。

 ところが展示会での評判は芳しくなかったそうだ。そして最終的に、しまうま柄は在庫品として倉庫に眠ることとなった。嘉秀曰く「しまうま柄は飛び柄なので、服のように大きく見せるにはいい柄行きだったが、鼻緒にするとしまうまが1匹か2匹しか収まらなかったり、胴体しか見えないこともあって鼻緒の図柄としては見栄えが生かせなかった…。和装向きの柄ではなかったのかな」と回想する。

取材・文  松田きこ  ライター、エディター。日本ペンクラブ会員。https://www.west-plan.com

<コメント>

二代目の嘉秀氏は、新しいこと、誰もやっていないことに挑戦してきました。「なにを見ても鼻緒と結びつけた、どうすれば履きやすいかにもこだわった」と、楽しそうに、今もなお現役で活躍されています。

【菱屋の三代目から四代目へのつぶやき】

 しまうま柄はフィレンツェで見つけたテキスタイルと聞いてたけど、スワッチ見本が最初だったんだ。そのスワッチから母のプレゼント用にワンピースを発注したというのも初めて聞いた。おやじが35~6歳の時として今から50年も前の話か。

 しまうま柄・・・、母・・・、「和柄には不向きだった…」いろいろ絡み合って、巡り巡って、のちに再会するわけだけど、そういう縁だったんだろうな。

 でも、そのスワッチやスカーフ柄から飛び柄のしまうま模様を再配置した素材開発チームもなかなかのセンスだな。そうか!彼らは着物用の柄として脳内変換したんだ。そしてあまりにも出来が良く、そのままスクリーン型を制作しちゃったけど、当初予定していた鼻緒用には不向きでした…ということやわ。

そして1997年、私もフィレンツェへ。橋本さんに連れて行ってもらったミラノフィレンツェコモロンドンパリ旅行。今思えばその時の見聞と生ハムとアンチョビが血となり肉となってる。