「菱屋」その歴史の始まり

 和モダンという言葉が使われるようになって久しい。昭和生まれにとって「和」は古い時代のものというイメージが強いが、平成や令和生まれにとって「和」は新鮮なものに映るようだ。古民家を改装したカフェに行列ができたり、普段着の着物を着るのがカワイイと人気だったり……。

 ひょんなことから出会った「菱屋」の草履とバッグは、飛び抜けて個性的でおしゃれ、そして機能的でもあり、いろいろなものを見てきた世代に刺さるものだった。鼻緒メーカーとして100年近い歴史を刻み、その上で新しいブランド展開を進めている菱屋とカレンブロッソ、その歴史をたどってみようと思う。

 創業者廣田一栄は、1901(明治34)年福井県足羽郡(現福井市)生まれ。1913(大正3)年、大阪・船場の朝井清兵衛商店(屋号:菱屋)に丁稚奉公に入り商売のいろはを身に付けた。10年間の奉公と1年のお礼奉公ののち、1926年(大正15)年2月17日、菱屋の小物部門を任されて独立した。当時の商家の習慣であった「のれん分け」だった。屋号は廣田一栄商店。

 その年の暮れ大正天皇が崩御され、昭和元年となった大正最後の年だ。大正時代といえばまだ一般的ではないとはいえ、仕事をもつ女性が生まれ和装から洋装へモダンガールが生まれた時代である。扱っていたのは下駄や草履の鼻緒のみ。洋装が入ってきたとはいえまだ着物が日常着だった時代、下駄・草履は必需品であった。

 一栄は朝5時に起きて自転車に鼻緒を積んで、主に神戸方面へ営業に出かけた。売り先は下駄屋で、売り切るまで帰らなかったという。戦争中も幸いなことに住居兼店舗は空襲の被害をまぬがれ、同業の仲間と少ない材料を分け合って鼻緒を作り続けた。

 戦後、働き者の一栄の商売は順調に伸びた。一方呉服全般を扱っていた大店(おおだな)である本家朝井清兵衛商店の商売は厳しい状態が続いていた。当主は「もうもたないかもしれない、菱屋ののれんを守ってほしい」と一栄に伝え、その依頼に応える形で廣田一栄商店は菱屋の屋号を受け継いだ。通常、組織の最高責任者である番頭にのれんは託されるものだが、鼻緒しか扱っていなかった一栄に大役が託されたのは、彼がいかに信頼されていたかがわかるエピソードである。

 一栄は常々「値段ではなく、いい鼻緒を作る。アタマで勝負する」と言い、どこにでもあるものではなくオリジナルにこだわった。「世の中にたくさん流通しているものを作ったところで値段競争にしかならない」というのが持論で、自分でアイデアを出して腕の立つ職人に作らせていた。その考えは現在にも受け継がれている。

取材・文  松田きこ  ライター、エディター。日本ペンクラブ会員。https://www.west-plan.com

<コメント> 当時の丁稚奉公というシステムの中で一生懸命働いて、自分の才覚で商売を拡大していった初代のバイタリティあふれる生き様は、大正から昭和にかけて栄えた大大阪時代(だいおおさかじだい)を彷彿とさせて、とても興味深いものです。

【菱屋の三代目から四代目へのつぶやき#1】

 昭和49年に他界したおじいちゃん。僕は7歳だった。ベッドの上で体を起こしていた本人の姿と、ぐつついて佳宏叔父さんに連れられ違う建屋から病室を見た風景を今も覚えてる。今回、あらためて菱屋の初代のことをおやじから詳しく聞けたいい機会になったし、10年いや20年越しのテーマであった菱屋の社史企画がやっと形になりそう。

 「タイミングって大事やね」